語りびとたちの記録
「命があれば、悩み続けることができる」
2014年11月の語り合いの記録
ケンジさん(22)・ハルさん(92)・ノブさん(88)の語り合い
(6人グループのうち3人の対話を抽出)
※登場人物はすべて仮名です
ケンジさん(22)が語らいの場に来たのは、大学の授業で聴いた話がきっかけだった。戦争に青春を奪われた人びとの語りを聞いた夜、漠然と感じていた自分の迷いが、急に恥ずかしくなった気がした。就職か、大学院か。親の期待に応えるべきか、自分のやりたいことを追うべきか。ずっと答えの出ないまま、堂々巡りを続けてきた問いだった。
語らいの場で、ケンジさんは最初しばらく黙って聴いていた。体験者たちの語りに圧倒されて、自分が口を開いていい場所なのかどうか、分からなかった。それでも場が自分に向いた時、絞り出すように言った。
「自分が悩んでいることなんて、戦争を体験された方々の苦悩と比べたら……とても口にできるようなことじゃないと思って」
その言葉が終わらないうちに、ハルさん(92)がぴしりと言った。
「それは違う」
ケンジさんが顔を上げると、ハルさんは続けた。
「人の苦しみや悩みに、重いも軽いもない。戦争の苦しみが一番重くて、あなたの悩みはその下にある、なんてことはないのです。悩んでいる本人にとっては、それがその人の全部なのだから」
ケンジさんは黙って聴いていた。
「戦争中、私たちは悩む余裕すらなかった。とにかく今日一日を生き延びることだけを考えていた。悩めるということは、命があるということ。命さえあれば、悩み続けることができる。だから……生きることを諦めないで欲しいと、私はただそれだけを伝えたい」
少しの間、場が静まった。
それまで黙って聴いていたノブさん(88)が、ゆっくりと口を開いた。
「私はね、戦後しばらく、悩むことすらできなかった」
ケンジさんがノブさんの方を向いた。
「戦争が終わって、家族もほとんど失って、何もなくなった。毎日食べることだけで精いっぱいでね。何かを考える力が、からっぽになっていた。悩みたくても、悩む気力もなかった。だから……あなたが『悩んでいる』と言った時、私はうらやましいと思った」
「うらやましい……ですか」とケンジさんは繰り返した。
「そう。悩めるということは、先のことを考えているということでしょう。明日も、来年も、この先も、自分の人生が続いていくと、どこかで信じているから悩める。あの頃の私には、それがなかった。先なんて、考えられなかったから」
ノブさんはそこで少し笑った。しわの深い、穏やかな笑いだった。
「だからね、悩んでいるあなたが、私にはとても眩しく見える。その悩みを、大事にしてほしいと思う」
ケンジさんはしばらく黙っていた。
「……そんな風に言ってもらえると思っていなかった」とケンジさんは言った。「悩んでいる自分が情けなくて、弱いと思っていた。でも……悩んでいることが、眩しいなんて」
「眩しいよ」とノブさんは繰り返した。「若いうちの悩みは、全部栄養になるから。無駄な悩みなんてひとつもない」
しばらくして、ケンジさんがハルさんに聞いた。
「ハルさんは、今でも悩むことがありますか」
ハルさんは少し考えてから答えた。
「あるよ。なぜ私だけ生き残ったのか。残された時間をどう使えばよいのか。悩むことは、死ぬまで続くと思っている」
「ノブさんは?」
ノブさんは即座に答えた。「もちろんある。昨日も悩んでいたよ」
「何を悩んでいたんですか」とケンジさんが聞いた。
「どのタイミングで、まだ話せていない戦争の記憶を語ればいいのか。残された時間の中で、どこまで伝えられるのか。それを悩んでいた」
ケンジさんは目を伏せた。
「それを聞いて……なんだか少し楽になりました。92歳も、88歳も、22歳も、みんな悩んでいるんですね」
「そうよ」とハルさんは微笑んだ。
「悩むことは、生きている証拠。思う存分、悩みなさい。その先に、何かが見えてくるから」
「悩み続けた先に、この歳になってもまだ新しいものが見えることがある」とノブさんが付け加えた。
「だから、悩むのをやめないでほしい。あなたの悩みの続きを、私たちは見届けることができないけれど……続きがあることを、信じているから」
ケンジさんはしばらく、何も言わなかった。
目が少し、赤くなっていた。